禅の教え
禅の究極の目的は、釈迦の悟りを直接体験することにある。自分の外側に仏を探し求めても、真の悟りは得られない。自分の内なる仏に目覚めることで、初めて苦しみから解き放たれる。
つまりは坐禅を実践する事こそが大切なことである。
禅宗においては、そもそも禅宗とはなにかといった問いかけを嫌う傾向にある。
そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。
もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。
文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。
沢庵和尚がたとえて言うには、「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できるとする。